荒谷竜太のトリビアブログ

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荒谷竜太 エベレスト

荒谷竜太です。

少し前に国内でも流行った映画「エベレスト3D」

みなさんは見ましたか?

僕は本当についこの間見たのですが、いろいろと衝撃すぎてもっと追及したくなりました。

 

 

 

世界最高峰の山、エベレスト

映画『エベレスト3D』とはどんな映画?

世界中の登山家をひきつける世界最高峰エベレストで1996年に起きた実話を、3Dで映画化したサバイバルドラマ。エベレスト登頂を目指して世界各地から集まったベテラン登山家たち。それぞれの想いを抱えながら登頂アタックの日を迎えるが、道具の不備やメンバーの体調不良などトラブルが重なり、下山が大幅に遅れてしまう。さらに天候も急激に悪化し、人間が生存していられない死の領域「デス・ゾーン」で離ればなれになってしまう。ブリザードと酸欠の恐怖が迫る極限状態の中、登山家たちは生き残りを賭けて闘うが……。

映画『エベレスト 3D』予告

いち早くこの映画を観ましたが、高度8000mでは、
自分の命を支えるだけでもやっとという自然の厳しさと、
まだ生きているのに、救えなかったという人々の無念さが身にしみました。
とにかく、迫力のある映像です。

実際に起きた事故 「1996年エベレスト大量遭難」とは?

1996年のエベレスト大量遭難(-たいりょうそうなん、英称;1996 Mount Everest disaster )は、1996年5月に起きたエベレスト登山史上最悪の遭難事故の一つで[1]、8名の登山家が死亡した。

出発前のロブ・ホール率いるAC隊

一番右に日本人女性登山家の難波康子さんの姿が見えます。

1996年、ロブ・ホール率いるアドベンチャーコンサルタンツ隊、スコットフィッシャー率いるマウンテンマッドネス隊がそれぞれエベレストの山頂を目指していた。
 どちらも隊も「公募隊」と呼ばれるエベレストに登りたい個人が出資し、顧客としてガイドと登る隊であった。

 二つの隊は順調に高度順化を行い、最終キャンプまで辿り着く。
 一行は深夜12時最終キャンプを山頂に向けて発った。

映画はこの2つの公募隊を中心に描いていますが、
実際には当日はいくつもの隊が同時に登頂を目指していました。

また、チベット側など他の方向からのアタック隊もいました。

渋滞するヒラリーステップ

翌日の午後の2時までの登頂を最終ラインとしていたが、結果からすると間に合わないメンバーがいた。

山頂に到達できなくても、午後2時になったら下山するべきだったが、メンバーの何人かは山頂を目指す。ガイドも彼らを抑止せずに山頂に向かった。

予定の時間を大幅に過ぎてしまったが、隊員は登頂し下山を開始。

「時間厳守」を体調自ら守れなかったのは、公募隊だったからとも言われています。
つまり、なるべく顧客を頂上に登らせてあげたい、
登頂人数が増えれば、翌年の参加人数にも反映される、
さらにジャーナリストが参加している(記事として扱われている)
などが、甘い判断につながったのかもしれません。

スコット・フィッシャー隊の隊長であるフィッシャー自身がタイムリミットを守らず、大幅に超過した3時40分ごろ登頂し、また長時間山頂に留まり時間を費やした。その後、下山中に体調を崩し、標高8400mのバルコニーを下った地点で動けなくなり、同行していたロブサンが救助を求めて先に下山した。また、台湾隊の高銘和も二人のシェルパとともにフィッシャーとほぼ同時刻に登頂した。

ロブ・ホールは大きく遅れた顧客のダグ・ハンセンを待ち頂上に1時間以上留まった上、ハンセンが体調を崩したためガイドのアンディ・ハリスと共にハンセンを助けてサウス・サミット付近を下山していたが、ハンセンは滑落、ハリスも遭難してしまい[注釈 6]、また彼自身も途中で体調を崩し動けなくなった。

Whiteout: 1996 May. Credit: original Photo by Ed Viesturs. National Geographic Magazine

他の登山隊であるフィッシャー隊メンバー5人とロブ・ホール隊メンバー2人が下山してきた。べックもさすがにこれ以上、ロブを待つわけにはいかず、彼らに加わると午後18時頃、合計8人で下山を開始した。(中略)そして、サウス・コル(約8千メートル)まで到達した。
このサウス・コルの平坦な雪原を1時間ほど進めば、暖かいキャンプに戻れるはずであった。しかし、ここで8人は猛烈なブリザードに襲われ、まるで牛乳の中を彷徨っているかのような状況に陥った。風は秒速36メートルで吹き荒れ、気温はマイナス51度まで低下した。

日本人として参加していた難波康子さん

1996年5月10日エベレストに登頂を果たし、47歳で七大陸最高峰を制覇した。これは当時エベレスト女性登頂者の最年長記録であった(2000年にポーランド出身のAnna Czerwińskaが50歳で登頂したことで記録は更新された)。しかしエベレスト登頂後の下山中に猛吹雪に遭い、翌5月11日最終キャンプ地からわずか300m離れた地点で死亡していることが確認された。

スコット・フィッシャーの墓

朝方、台湾の高銘和登山チームのシェルパが探索に出発し、顔、指、かかとに酷い凍傷を負っていた高銘和と、ロープで繋がれたスコット・フィッシャーを発見した。スコットは虫の息だったため、台湾隊は高銘和を救助して去った。その後スコットは力尽きたと推測される。夕方になりフィッシャー隊のガイドのブクレーエフが1人で救助に向かったが、スコットはすでに凍死していた。

遭難の詳細は、wikiの「1996年のエベレスト大量遭難」に出ているので、
あらましはそちらを読んでいただければわかるでしょう。
そこには事実が書かれていますが、その時、そこにいた人たちはどう思ったかをリアルに感じるには、生き残った人たちが書いた本や遭難を考察した本、
あるいは映画を見てみると、よりいっそう理解が深まると思います。

この遭難から生還した人の証言

空へ エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか

AC隊に参加したジャーナリスト、ジョン・クラカワーによるノンフィクション。
ジョン・クラカワーは映画にもなった『イントゥ・ザ・ワイルド』の原作『荒野へ』の著者としても知られます。

1996年に起きたエヴェレストのネパール側で起こった大量遭難に関するルポルタージュで、世界中でベストセラーとなったので、読んだ方も多いだろう。
 クラカワーの書き方は、大げさな部分が一切なく、登山遠征の記録にありがちな自分に酔っているような記述もない。きっちりとインタビューをして事実を淡々と書き連ねており、ゆえにリアルである。10年前に読んだとき、自分はチベット側のエベレストしか知らなかった。しかし、去年ネパール側から登ったばかりということもあり、『空へ』のあらゆる記述が微に入り細に入り、突き刺さってくるように目に浮かんだ。
さてそんな「空へ」なんですが内容はもう壮絶といったらありゃしません。
さすがに現役のジャーナリストが遭難に巻き込まれただけあって、状況描写もなるべく正確に描かれているし読んでいて引き込まれます。

現在「空へ エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか」は、タイトル変わって別出版社から再発されています

山と渓谷社
2013/7/31発行
1365円

デス・ゾーン8848M エヴェレスト大量遭難の真実

MM隊のロシア人ガイド、アナトーリ・ブクレーエフの証言によるノンフィクション。
「空へ」ではクラカワーに非難されているが、単身戻って遭難者を救助したのも彼である。

顧客に十分なサービスを提供しなかった、と批判されるブクレーエフですが、緊急事態には危険を冒し、高所登山のプロである彼にしかできない勇敢さで何人かの遭難者の生命を救いました。
この働きこそガイドとしてエヴェレストで彼に与えられた本当の役割だったのだと思いました。彼は死力を尽くしました。
山を熟知した人間として、顧客に対しこまごまとした身の回りの世話をするのがガイドの仕事、とは彼は思っていなかったのです。
無酸素で登ったのが悪かったのか(「空へ」では完全に悪と決め付けている)、良かったのかはわからないが、無酸素で登ったせいで、早めにキャンプに戻り体力を回復していたブクレーエフのおかげで、遭難したメンバーの数人は助かっている。
嵐の中、二重遭難の危険も省みず1人救出に向かったブクレーエフの行動は賞賛に値すると思うし、酸素ボンベを使っていれば、顧客にずっと着いている事になり、自分も他のメンバーと同様遭難したであろうというブクレーエフ の主張も理解できる。

死者として残されて エヴェレスト零下51度からの生還

映画でも奇跡の生還が描かれたベック・ウェザーズによる、体験談。
事故だけでなく、家族の再生物語にもなっている。

「死者として残されて」は当時難波さんと同じ場所で、二人とも虫の息のところを翌朝発見されたものの残置されたままでその場で死者として扱われた方です。テントからはそんなに離れていない距離でした。奇跡的な復活で、夕方に突然目が覚めて!!自分でテントに歩いて戻って奇跡の生還とされました。テントに戻ったのに、ほとんど死者扱い。クラカワーの本を読んでも、ほとんど死者として扱かわれていて、下のテントまで下ろすのも別のメンバーが行ったようで、「空へ」を読んだときも、なんだかとっても不思議な方だと思っていた。間違いなく死ぬとされたのに、ちゃんと生きて戻ってきて。代償としては、右手全部と左の手のほとんどと鼻の欠損。

現在「死者として残されて」は、タイトル変わって別出版社から再発されています

K&Bパブリッシャーズ
2015/10/19発行
1944円

エベレスト 非情の最高峰

この遭難事件に遭遇したIMAX撮影隊による記録。

日経ナショナルジオグラフィック社
1998/5/14発行

現在は絶版なので、中古か図書館でお探しください。

すみやかに自分たちの登山計画を延期して他隊の救援に奔走したのはIMAX隊を含めて3隊。別の公募登山隊からも、まずは自分たちの顧客の安全確保をしてからサウス・コルに向かった登山家がいました。(中略)IMAX隊も惜しげもなく50本の酸素ボンベと食料と水を提供。そのおかげで生還者の人数が増えたかも。
(我関せずだった隊もあり、ケチョンケチョンに非難されとります)

過去にこの遭難を扱った映画もあります

エベレスト IMAX

1996年の遭難のとき、ちょうどIMAX用の撮影隊がエベレストに入っていた。ベック・ウェザースは、この撮影隊の助けを借りて下山した。残念ながら日本版DVDは廃盤。

エベレスト 死の彷徨

ジョン・クラカワー著の『空へ』のテレビ映画化。日本では劇場公開されておらず、ビデオスルーになっています。

そして実際の状況がそうなのであろうが、1997年版のシーンの多くが夜の猛吹雪の中であり、全く光景にメリハリがない。それを2015年版は意識的に昼間の明るいシーンに置き換えていると感じた。
映像作製技術の進歩が2015年版をよりエンターテイニングにしているが、どちらの方が「死の恐怖」であるとか「自分だけでも助かりたい人間のエゴ」といった美しくないリアリティが描かれているかといえば、断然1997年版である。

この映画も見たいのですが、なかなかチャンスがありません。

確かに2015年の『エベレスト3D』では、誰かを責めないような配慮がされています。
それがどうしても感じ取られてしまうのです。
まあ、実際は天候さえ崩れなければ、誰も責められることはなかったのですから。

いかがでしたか?
調べれば調べるほど、この大量遭難事件は、ちょっとした判断ミスやリーダーシップ
人間の善意や好意、死に行く人を見捨てられるのかといった問題を考えさせられます。
そして、もし天候に問題がなかったら、死者が出なかったこともありえたわけで、
人知の及ばない自然、というものも感じさせます。

映画を見て興味を持った方は、ぜひノンフィクションもお読み下さい。

 

 

 

日本人もいたみたいですね、、

人々に感動を与えてくれる山ですが、時には怖いなと思いました。

標高8000mなんて異次元の世界です。

荒谷竜太でした。